午前三時の月あかり

亀梨和也君と日常ごと。木皿泉さんの事なども。

木皿泉脚本ラジオドラマ「呼吸する家」

6月29日放送の木皿泉脚本、FMシアター「呼吸する家」。久しぶりの木皿さんのラジオドラマ。凄く良かったです。


<あらすじ>
末期ガンで余命宣告を受けた中年男性が、ホスピスでのさまざまな人々との出会いを通じて、自分の死と向き合っていく人生最期の奇跡の物語。


木皿さんらしい、死の暗い影を感じさせず押しつけがましくもなく、カラッと明るい、死の重さよりも生の重さをずしんと感じさせるドラマでした。


末期ガンの尼子さん(温水洋一さん)が同じく末期のダンディさん(ケーシー高峰さん)に言われた言葉。こうしている間にもどんどん終わりが近づいてくるという尼子さんに、


尼子さん、今前向いてるんだ。
俺達は後ろ向きで歩かなきゃ。


後ろ向きだと世界がどんどん広がって見えない?
前を向いてるとどんどん先が細くなってるのしか見えないんだよね。
あ、先は行きどまりだ、なんてね。


でもよく考えてごらんよ。尼子さんの後ろはその逆にどんどん広がっているんだよ。
歩けば歩くほどどんどん世界は広がる一方。


この言葉はとても木皿さんらしい素敵な言葉ですね。前を向いているから前向きとは限らない、後ろ向きでも前に進んでいる事にかわりはないんですよね。
人生の最期を迎える人が最後に見るものが、果てしなく広がる世界だとすれば、こんなに素晴らしい事はありません。


なりたいものになってから死ぬと言っていた小町さん(白石加代子さん)が見つけたなりたいもの。妊娠したヘルパーさんの子供になる事。


私、有ちゃんのお腹の子供として生まれかわる事にする


去年の同じくFMシアターで放送された木皿さんのラジオドラマ「LET IT PON!〜それでええんよ〜」の

赤いセロファンメビウスの帯
生きてゆくという事は死んでゆくという事
死んでゆくという事は生きてゆくという事

をちょっと思い出しました。死が終わりじゃない、ということ。


すいかでも、「すいかのお墓」から芽が出てきた時に「お墓って終わりじゃないんだ。始まりなんだ」のような台詞がありました(うろ覚えです)。


こうした木皿さんのドラマに繰り返し出てくる不変のメッセージがとても好きです。


このドラマの脚本が月刊ドラマ8月号(7月18日発売)に掲載されるそうです。
月刊ドラマ8月号


文字起こししようかと思っていたのでこれは嬉しいです^^ 楽しみです。

映画「俺俺」感想(ネタばれ有)

亀梨和也主演、三木聡監督の映画「俺俺」観てきました。面白かったー!私が亀梨君のドラマや映画を観て脚本や演技で引っかかるところなく思う存分絶賛出来るのは野ブタ以来です。公開初日から観に行き既に4回観ました。それでも全然飽きない。まだまだ観たい!嬉しい!


三木監督作品は「イン・ザ・プール」「亀は意外と速く泳ぐ「転々」インスタント沼」、そして「時効警察」を観てますが、最初は「俺俺」も三木作品でよく言われている「脱力系コメディ」に近いものだと思っていました。ポスターもポップですし、予告映像もシュールですがコメディっぽいとも思えるし。


ですが実際観てみると笑いどころはあるもののかなりダークで不条理な世界。思いっきり好みの映画でした。


始まってすぐの摩訶不思議な音楽と立ち並ぶ要塞のような団地群。団地の隙間から覗くどんよりとした空。そこから感じたのは閉じた世界の息がつまるような圧迫感。三木監督が、日常がズレていってしまう感じをどう表現するかがこの作品のポイントとおっしゃっていましたが、日常が少しずつズレていくその始まりのような不穏さを感じました。


均がなんの気なしにしてしまった俺俺詐欺をきっかけに増殖が始まる。ある日実家に帰ると自分がいた。そしてどんどん増えてゆく劣化コピーの自分。その理由のない恐ろしさ。それが全て自分である恐ろしさ。「均」という名前も改めて考えると興味深いです。


増殖とは言っても分裂して新しく出現した自分ではなく、もともと大樹という人間がいて、それが自分になってしまったのが面白い所であり、最大の謎でもあり。大樹だけでなく他の人もそうですが。


途中ドロドロの液体が何度か出てきますが、それが今にも動き出しそうで、人間の体の中に入り込み体を乗っ取る意志を持った液体のように思えて不気味でした。コップに水を汲むシーンもよく出てきましたがドロドロの液体が蛇口からも出てくるんじゃないかと^^; でもそれも狙いだったのかなと。街中あちこちに出てくる沢山の「目」のように、均の強迫観念みたいなものが実体化したものなのかなーなんて。


大樹の母の尾行をしてる時、ピンクのドロドロに驚き飛び退く均が面白かったです。舞台挨拶レポによるとあれは亀梨君のアドリブのようで。ああいうリアクション上手いなといつも思います。運動神経、反射神経がいいなとも。


あのドロドロは何だったのか、そもそも増殖がなぜ起こったのか(きっかけじゃなくて原因)という小さな疑問から大きな疑問まで殆ど説明されていませんが私は説明がないのがいいと思いました。スッキリしないという感想も多く見かけましたが、私は説明しすぎるとあの奇妙な世界のバランスが崩れると思ったので。


ラストの均と母親の会話と均の表情も意味深で、残ったのは本当に均?という疑いも出てきますが(でもやっぱり均ですよね)、最後日常が戻ってきたけれども、前とは少し変わった日常になっていた。均が成長したせいなのかまわりの状況が変わったのか、それとも両方か。というごく普通の結論に落ち着きました。私の中では。でもパラレルワールドという解釈があっても面白いなと。


均の母親は最初は均の事を「君」と呼んでいて、最後のシーンでは「あんた」と呼んでいるんですよね。均と母親との関係もちょっと変わったのかな。ちょっと近くなったのかな。なんて。それともただの気まぐれか。

物語の結末としては割とスッキリ終わったように思いますが、前述の通り多くの疑問が残ったままなので「まだ何かあるんじゃないか」と映画が終わった後でも考えてしまいます。でもその「何だったんだろう」というのも余韻としていいんじゃないかと。


現実の世界でも全ての謎が解決されるなんて事はないのだし、結局自分が誰かなんて生きている限りずっとつきまとう疑問なのだから、なんてね(笑)。

意味のある事と意味のない事が同じ重さでまんべんなくちりばめられていて、どんな解釈をしても何かしら謎が残るんじゃないか。それを狙っているんじゃないか。なんて思いました。

感想というより思いつくままだらだらと書いてしまいましたが、私が映像や音楽とともに驚嘆したのは亀梨君の特に均の演技なんですが、これはまた別に書きたいです。多分。

そしてもう本日になってしまいましたが、6月1日にヒューマントラスト渋谷で三木聡監督と宇野常寛さんのトークイベントに行ってきます。

宇野さんと言えばこちらでも書きましたが、野ブタファンと木皿ファンにはおなじみです。「週刊 野ブタ。」では“善良な市民”さんでした。最近ではベムのパンフレットや木皿さん関係の本にも寄稿されています。


監督やスタッフの方の話を聞くのが大好きなのでとても楽しみです。そしてまた「俺俺」を観られる.:*・゜ああ幸せ.:*・゜


追記:
トークイベントすごーーーく面白かったです。「熱海の捜査官」を見てなかったのでそのあたりの話の意味がよく分からず、悔しかったので(笑)すぐ借りて見ました。なるほどー(納得)。


こちらに三木監督と宇野さんの対談が載っています。トークイベントで出た話もあり面白かったです。
俺たちはキャラクター化している 三木聡×宇野常寛『俺俺』対談

野ブタ。ドラマ化のこと〜白岩玄さんのエッセイより

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「文藝別冊 木皿泉」を読んでいます。「野ブタ。をプロデュース」の原作者、白岩玄さんがエッセイを寄稿されていると聞き真っ先にそこを読みました。


ドラマを観て感じた違和感。そして違和感を抱えたまま観てゆき、ある場面で強く心を揺さぶられた事。そして改めて観直してみて印象ががらりと変わった事。などを率直に書いて下さっていて、その率直さに胸を打たれました。


その場面が画像の場面なのですが(追記 : 画像が消えてしまいましたが7話で修二がまりこに話す場面です)、中途半端な引用をすると中途半端な伝わり方になるような気がするので引用はしませんが、最後の方に書かれていたこの部分だけ。


木皿さんは僕の書いた小説を本当によく読み込んで、主人公を救ってくださったのだ。

この文章を読んだ時、ドラマの修二を思ってブワッと涙がこみ上げてきました。


木皿さんは以前TRIPPERのインタビューで


私はその人のオリジナリティは、ストーリーにあると思ってないんです。細部にある。でもそれは構成し直した途端に意味が消えてしまう。だから書いた人のエネルギーが一番感じられるところを探して、そこんとこだけは外さない、というか、そこんとこに共感できない原作物は引き受けません。

とおっしゃっていました。


このエッセイを読んで、それがどういう事なのかやっと理解出来たような気がします。原作ファン、ドラマファン、そして亀梨君のファンにもぜひ読んで欲しいエッセイです。


そして、白岩さんはツイッターでもその事について補足して下さっています。






亀梨君は野ブタの修二が一番自分に近い役だったと以前話していました。ザ・テレビジョンのドラマアカデミー賞主演男優賞受賞の時のコメントで「後半では役に共感し過ぎて自分自身本当に怖くなったりもしました」とも話していました。


私を含めジャニーズが苦手だった沢山の人が修二で亀梨君に惹きつけられたのは、そんな修二からにじみ出てきた亀梨君の本質の一部に反応したからなのかもしれません。

木皿食堂 第23回「ひとりメシ」

第23回 「ひとりメシ」(2013.3.3)


木皿さん(年季子さん)が実家を出て一人暮らしを始めたのは31歳の時だそうです。


家を出たらあれもしたいこれもしたいと思っていたが、結局は似たようなものを食べるし、似たような部屋になってしまう。慣性の法則だなぁと思う。と。


3月14日から始まる木皿泉さん脚本の舞台「君をほほえめば」についても触れています。


この芝居を書きながら、現実を受け入れるのは難しいものだとつくづく思った。私たちが一番受け入れがたい現実は、親がいずれ死ぬということではないだろうか。子供の頃、そんなことを想像しただけで怖かった。一人暮らしを始めるというのは、まずそのことを引き受ける第一歩なのかもしれない。

家を出た時、食べ慣れたものを食べたのは不安だったからだろう。と。


一人でメシを食うということは、片手に箸を、もう片方の手に茶碗を持つように、不安と自由をうまく扱えるようになる、その手始めなのだと思う。


私も小さい頃からずっと母が死ぬのが怖かったです。父を早くに亡くしたので余計に。どうしようどうしようと不安に苛まれたあげく「そうだ!その時は私も死のう」と思い、そう思った途端すうっと心が軽くなったんですね。


実際そんな事は出来ないし、出来ないだろうとその当時も分かっていたんですが、それはある種の「おまじない」だったのかなあと。痛いの痛いのとんでけーみたいに(ちょっと違うかも笑)。


そんな事はもうとっくの昔に思わなくなりましたが、そう思わなくなった時が私にとって現実を受け入れ始めた時だったのかなあと思います(でも今もまだ途中です。きっと)。

勇気の花

2年前の今日3月11日、東日本大震災が起こりました。TVで見た映像は恐ろしく悲しく今もはっきり思い出されます。


来年も再来年もこの日が来るたび祈ります。どうか、どうか、亡くなった方達のおわす場所は暖かく苦しみのない安らかな場所でありますように。


勇気の花/KAT-TUN
KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN at TOKYO DOME より

勇気の花 歌詞


今日の田口君のラジオTAG-TUNE DRIVINGではやっぱりこの曲「勇気の花」が流れました。震災をうけて被災地の方々に向けて作られた曲。


悲しい心に寄り添った、痛みを伴った希望の曲です。KAT-TUNが歌うと、かすかな光をそうっと壊さないように大事に大事にすくい取って手渡しされたような、そんな感じ。優しい悲しい歌声。そしてその核となる強さ。


私はバラードというものが好きではないんですが、この曲は特別です。それは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくる挿話「さそりの火」を思い出すからかもしれません。自らの身体を燃やして暗闇を照らす美しい火となったさそり。


KAT-TUNが灯した火は今も燃え続けているんでしょうね。どこまでも、どこまでも。

亀梨君お誕生日おめでとう

亀梨和也君、27歳のお誕生日おめでとう.:*・゜


今日2月23日は、ジャニーズに偏見を持ってた私の世界を180度ひっくり返した人、亀梨和也君の誕生日です。


亀梨君を好きになったきっかけの野ブタの時には隣に山Pがいました。その後KAT-TUNを知っていくと隣には赤西君がいました。どちらもどう考えても隣の人の方がかっこいいと思うのになぜか最初から亀梨君に目が行ってたんですよね。


亀梨君は「美形」というより「綺麗」という言葉がぴったりです。美形というとパーツの一つ一つが美しくそれが完璧な配置によって生まれる造形の美しさ。どの世代の人もどんな好みを持つ人でもきっちり等しく「美しい」という言葉が出てきそうなイメージです。


でも亀梨君は、纏う空気や雰囲気を含めてというか。まるでホログラムのように目を凝らせば凝らすほど分からなくなるけれどもやっぱり綺麗としか言い様のないもの、なのです。私にとって。


あとこれまで何度か言ってきましたが、私にとって亀梨君の最大の魅力といえば「欠けてる」ということ。決して完璧ではないけれども、いつも何かが足りないという思いを持ちつつ、それを埋めようとして光を放っている人。そうして歌う曲や演技が胸を打つんじゃないかと。


才能とは祝福ではなく欠落だ。と言ったのは龍先生でしたっけ。そんな欠落をかかえながら生きていくしかない人が私はとてつもなく好きなのだと思います。


恥ずかしい事を書いていますが酔ってはいません(笑)。大真面目です。


亀梨君をKAT-TUNを知らなかったら、あの身が引きちぎられるほどの辛い思いはしなかったでしょうが、かわりに震えるほどの感動も、泣き出しそうになるほどの切なさも喜びもなかったでしょうから、私はやっぱりこちらを選びます。何度でも。


ファンになってから7年と少し。今も揺るぎなく私の「好き」の中心に居続ける人。びっくりするくらい他の人に目がいかない自分に驚きながら、来年の今頃もまた同じようにかめたんかめたん言い続けてるのだろうなと思います。


素晴らしい一年になりますように。

NO WORDS, NO TIME 〜空に落ちた涙〜

田口君の舞台が無事全公演終了しました。おめでとう.:*・゜お疲れ様でした


私は1月31日夜の部へ行って来ました。以下いつもと同じようにツイッターでつぶやいた事を含む感想です。


妻と幼い子供を亡くし生きる気力を失った男の日常から始まる物語。もの悲しいピアノの旋律と反復する振りが、もがいてももがいても闇ばかりで抜け出せない悲しみを増幅させているようで美しくも悲しかったです。


台詞がないというのは、パントマイムやダンスで全てを表現したかったというより、生きている世界が違うから言葉が通じない、だからパントマイムやダンスで気持ちを伝えようとした。といった物語上の必然性を感じました。「言葉があっては伝わらないもの」を伝えたかったのかなと。


東山さんと田口君のスーツの色が時々変わるのは、こういう事なのかなと勝手に想像し勝手に納得しました(見当はずれだと恥ずかしいので書きません笑)


東山さんのダンスはしなやかでバネのようで、頭のてっぺんから足の爪の先まで意識が通っているような、どこを切り取ってもポーズの一つ一つが綺麗で残像として残るようなダンスでした。パンフレットでも額を持った後ろ姿だけでもう全身が美しいですよね。


花總まりさんは、立っているだけで可憐で儚くて。田口君にとって母親なのに恋人のようでもあり。昔映画かバレエで観たオルフェウスのエウリュディケを思い出しました。そういえば黄泉比良坂のようという感想も見かけました。良く分かります。皆さん思う事は同じですね。


東山さんが田口君の頬を両手で触れた時、そこにあるのは父と子の愛情以外の何ものでもなくて苦しく切なかったです。見た目は変わっているのに触れた瞬間に頭だけでなく魂で理解したみたいな。その時の田口君も子供の顔をしていて。


田口君は最初の登場のあたりは無機質な人形のようなんですが、その表情と子供のような無垢な表情の二つの対照的な
表情がとても印象的でした。台詞がないのに表情でちゃんと演技してたなあ^^


田口君のダンスは東山さんのように完成されていないのですが、背も高く、振付の黒田育世さんもおっしゃっていたように振りも大きくて舞台映えしますね。ジャンプも高くていつもKAT-TUNで見慣れているはずなのに、狭い舞台で改めて見るとびっくりします。


東山さんと田口君で鏡のように向かい合って踊るダンスも凄く良かったんですが、一番好きだったのが、東山さんが前で踊っていて群舞が後ろで踊り、その更に奥で田口君が東山さんと同じ振りを踊っている所でした。二階席だったのですが、舞台の奥の方までよく見えて、全体も勿論よく見えて、とても良い席でした。


台詞がないのでカーテンコールでやっと田口君の声が聞けたんですが、やってくれました「入口出口田口で〜す」(笑)。そこで初めて夢から覚めて(笑)、「ああ今まで舞台で踊っていたのってやっぱり田口君だったんだね」としみじみ思いました。あの晴れ晴れとした顔忘れません。


今回1回しか観劇できなかったのですが密度の高い、プロ集団の素晴らしい舞台を観させていただきました。ぜひ再演して欲しいです。レポでみかけたのですが、田口君が千秋楽のカーテンコールで「今回舞台人として第一歩を踏み出す事が出来ました」と言ったようですね(涙)。その記念すべき第一歩(の何分の一かの公演)に立ち会えた事をとても嬉しく思います。