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午前三時の月あかり

亀梨和也君と日常ごと。木皿泉さんの事なども。

音楽劇「靑い種子は太陽のなかにある」2015.8 オーチャードホール

音楽劇 「靑い種子は太陽のなかにある

パンフとチラシ_300

作  : 寺山修司
演出 : 蜷川幸雄
音楽 : 松任谷正隆  
出演 : 亀梨和也 高畑充希 六平直政 マルシア 戸川昌子 花菜 山谷初男 他

弓子 「そして、賢治さんは、暗いアパートの壁の死体のあり場所に、チョークでくっきりと目じるしの太陽をかきました。忘れないために、そしてあたしの手を握って 『靑い種子は太陽のなかにある』 と言いました」 −第二幕より−



8月17日と28日の2日間観劇しました。つたない感想を。長いです。


オーチャードホールの重厚な緞帳が開くと、そこに広がるのは異様な光景。傾斜のきつい舞台にごろごろと無造作に置かれた奇怪なオブジェ。絵画の一部になったような動かない人々。ボッシュブリューゲルフリーダ・カーロピエタのマリアとキリストもいる。(と観劇前にツイッターで教えていただいたのでじっくりと見る事が出来ました^^)


その人々が音楽とともに動き出す。銃撃音とともにバタバタと倒れていく様は戦争を思わせる。そしてまた音楽に合わせてゆっくりと絵の一部に戻っていく。


このオーバーチュアだけでもう圧巻の一言。セットもライティングも、(そんなに多くの作品を観てるわけではありませんが)蜷川さんの世界だなと思いました。


そこへ賢治登場。まず思ったのは、掃き溜めに鶴(笑)。まぶしすぎるくらいのライトを浴びて、地獄絵図のような背景から浮かび上がる賢治もある意味異様でした。スラムにいながらもはっきりと違う存在だと一目で分かる。


賢治のブルースは、泥臭さというよりは鬱屈を抱えたまだ青い青年のブルース。このブルースが実にいいんですよね。亀梨君の少しかすれた声には甘さや焦燥感が含まれていて、私はそこが大好きなんですが、ここではより深みのある声で。でもやっぱり抜けきらない青さが色っぽくて。錆ついた鉄と血の混ざった匂いのする賢治のブルース。


亀梨君が舞台用に歌い方をあまり変えていなかったのに驚いたんですが、実は本番の二週間くらい前まではもっと歌い上げる歌い方をしていたのが、歌い上げるなと言われたそうで。


「ミュージカルにはしないよ」
「歌い上げるな」
「綺麗に歌うな」
亀梨和也の歌の上手さを見せつけるために歌うんじゃない」
「ミュージカルじゃないんだから歌うな」
「もっと声枯れちゃえばいいのに」
「亀梨君は顔が綺麗すぎるから、もっと声を汚くしろ」


亀梨君が蜷川さんから言われた言葉だそうです。なるほど(笑)。


賢治がもし朗々と歌い上げていたら、賢治の苦悩の生々しさも薄れていたわけだし。蜷川さんはあえてそういう歌い方をさせなかったと聞いて納得しました。


井上芳雄さんが蜷川さん演出のハムレットに出演した時、自分は声楽を習っていたので喉に負担が ないようにいかに綺麗に出すかという声の出し方だったけれど、蜷川さんが求めるものは生々しいドロドロしたザラザラした、声なんて枯れてもいいんだくらいの声だったと、先日インタビューで話していたんですが、今回の舞台でも歌にしろ台詞にしろ蜷川さんが亀梨君に求めたのもそういった声だったんだろうなと思います。


賢治のブルースが終わると、絵画の一部だった人々がスラムの住人となって歌い踊り出す「たまげたもんだ」。夜の女たち、乞食、老貴族、鳥飼い、肉体美の男、ゲイ・ボーイ、怪力、女相撲取りといった個性的なスラムの人々。やかましくて奔放であけすけで、図太く生きるスラムの人々。荒削りで生命力にあふれた歌とダンスが素晴らしい。アンサンブルの迫力。


賢治と弓子の二人の台詞や歌は夢物語のように純粋でひたむきで、スラムの人々のそれは、コミカルだけど残酷な童話のようでもあるし。寺山修司の言葉の断片。やはりどこか詩的で美しい。そこに松任谷さんの耳になじむメロディーがつくと現代的なものが混ざる。不思議とそれは違和感がなくこの世界を作り上げていました。


高畑充希ちゃん演じる弓子の不純物の一切ないクリスタルの歌声に心洗われ、花菜さんとマルシアさんのマリーとサリーのド迫力歌バトルに圧倒され(サリーの子守歌も泣けました)、六平直政さんと亀梨君の彌平と賢治のデュエットでは父子の情と葛藤にこっちまで息苦しくなり。戸川昌子さんのおりん婆さんの腹の底から絞り出すような義太夫調の語りに身震いし、でもその内容に嫌な予感がじわりじわりと迫りくる。


事故を目撃する前の結婚を夢見る賢治と弓子のやりとりが微笑ましくて可愛くて。それだけに最後が残酷すぎて。


おりん婆さんの語る「日招き」の話が、二人に重なる。
「そして、田の畔には、血の色をしたバラが一輪咲いていたという話だよ」
「お日さまも罪なことをしなさったもんだねえ」


銃弾に倒れた弓子の胸にも真っ赤な血が。まるで真っ赤なバラを抱いているよう。
真実を明らかにする事が愛を守る事だと信じた二人の、踏みにじられた姿があまりにも悲しくて、散りゆく者の姿はゾッとするほど美しくて。


夕暮れにしか逢うことが出来なかった二人。「日の沈むまでの物語はおしまいね。これからは、日が昇るまでの物語がはじまるのね」と言って息を引きとる弓子。劇中何度か歌われる「日がもしも沈まないなら」がここでも流れる。まるでレクイエムのよう。見守るスラムの人々。


原作の戯曲を読んだ時は、賢治は弓子の死の悲しみの中にも「僕達やったよ」という満足感も含まれているように思えたんですが、舞台では、真実と引き換えに失った、その代償の大きさに打ちのめされているように思えました。死を中々受け入れらず「まだ行くな」という悲痛な叫びが聞こえてくるような。


政治とか社会とか思想とか、賢治はそんな大きなものに向かっていったわけではなくて、ただ一瞬心を通わせた朝鮮人の死をなかった事には出来なくて、みんなの幸せのためではあってもそれを見過ごすのは「正しい事」ではない。その怒りにつき動かされていたような気がします。人によっては駄々っ子のようにも思える怒り。


どうすれば良かったのか、ただ運が悪かったのか、これは起こるべくして起こったのか。それとも時代が悪かったのか。そんな時代のありふれた男女の話だったのか。この二人もまた、おりん婆さんの語る昔話に出てくる恋人達だったのか。私たちはスラムの人々と一緒に、昔々の悲しい物語を語り部であるおりん婆さんを通して見ているだけなのか。


見てる私もそんな思いがぐるぐる。そこに守り抜いた正義を喜ぶ余裕はなくて。


「靑い種子は太陽のなかにある」
「愛のために斃れた者は太陽のなかに葬られる」
結局靑い種子とは何だったのか。太陽の中には何があったのか。


もう息をしていない弓子の服を整え足を揃え手をそっと胸の上で組ませる賢治。愛おしそうに弓子に触れながらも嗚咽は止まらない。そんな二人にまた真っ白なライトが当たっている。その光はやっぱりまぶしすぎて二人とも太陽の中にいるようでした。



ツイッターでつぶやいた事もついでに。



ちなみに、河野Pは亀梨君の“陽”の部分も大きな魅力であると示したくて「1ポンドの福音」を作った。という事も追記しておきます(河野Pファンでもある私)。→こちらでも書きました。





日本でミュージカル熱が一気に高まったのは映画「ウエストサイド物語」の大ヒットからで、寺山修司もこの戯曲の初演の頃出版された「ミュージカル入門」に「日本のミュージカル」を執筆するなどミュージカルという劇表現に並々ならぬ関心を寄せていたそうです。(群像の解説より)


ウエストサイド物語にインスパイアされたジャニーさんが、野球少年4人を歌って踊れるグループに仕立て上げたのが始まりというジャニーズの、そのジャニーズの亀梨君が寺山修司生誕80年の年に寺山修司の戯曲を、音楽劇をやるというのも不思議な縁だなと思いました。


「日本のミュージカル」で寺山修司が書いていた言葉を最後に。今回の舞台はミュージカルではなく音楽劇という形でしたが。


「ミュージカルは、現在ある文学、演劇、音楽、舞踊、美術の綜合的成果として、日本人のいまのエネルギーの結集したダイナミックな舞台芸術であるべきだ」


生の舞台のエネルギーってすごいですね。