午前三時の月あかり

亀梨和也君と日常ごと。木皿泉さんの事なども。

「ハルナガニ」2014.4.26 シアタートラム

木皿泉さん脚本の舞台「ハルナガニ」を観にシアタートラムへ行ってきました。


ハルナガニ1


脚本 : 木皿泉
演出 : 内藤裕敬
原作 : 藤野千夜 小説「君のいた日々」
出演 : 薬師丸ひろ子 細田善彦 菊池亜希子 菅原大吉/渡辺いっけい


「ハルナガニ」とは
「春永に」と副詞的に用いられる「春の日の長い季節」を指す言葉。「いずれ春永に」とすると「いつか暇な時にお会いしましょう」という別れの挨拶になる。能の別れの言葉や、三島由紀夫が手紙の結びとして好んで使ったことでも知られる。

INTRODUCTION
どこにでもあるようなマンションの一室。
一年前に妻兼母の久里子を亡くして以来、春生と息子・亜土夢はこの部屋で二人暮らしらしい。
ところが、その日の夕方に久里子が普段どおり会社から帰宅する。
久里子は「一年前死んだのは春生」だと言う。
亜土夢は必死に父に母を、母に父の存在を証明しようとするが失敗。
疲れ果てた亜土夢が自室に戻ったあとは互いに「会いたいなぁ」と繰り返すばかり。
翌朝、久里子には夫婦共通の友人だった春生の会社の西沢が、春生には同じく会社の部下の三浦が訪ねてくる。


ねじれた世界。
五人の想いがすれ違う。

パンフレットの木皿さんの文章を読むと、夫婦は別の空間で生きているのか、違う空間に生きているのか、二人とももう亡くなっているのか、原作と演出家の考えと脚本家の考えは皆違うようです。


どれが本当かをはっきりさせるより、何を本当と信じたいのかという方が大事なのでは、と木皿さんはおっしゃっています。


伝言ゲームというものがあります。伝えてゆくうちに、最初と最後がなんだか不思議に違ってくるという、あれです。この芝居も、そんな感じなのではないかと思います。
原作を読んだ私たちの解釈。それを読んでさらに演出家の内藤さんの解釈が加わってゆく。今日は、そんなゲームの果てをお見せしようというわけです。


今日、芝居を観て、あなたが感じたことこそ本当のことです。それを、しっかり握りしめ、家までおっことさないよう気をつけてお帰り下さい。

と。なので私は私が感じた事が本当だと思う事にします。


私は、夫婦はどちらも(おそらく一度に)亡くなっていて、残された亜土夢を心配するあまり、それぞれ自分は生きていると思い込んで残像のように生活を続けているのかなと思いました。


春生は自分は生き残ったと思うから久里子が見えない。久里子は自分が生き残ったと思うから春生が見えない。とか。


あるいは、残された亜土夢の見ている幸せな夢なのかも。その幸せで寂しい夢に呼ばれた春生と久里子が夢に入り込み夢に住み着いているのかも。なんてちょっとセンチメンタルに飛躍してみたり(笑)。


すうねるところの時は「木皿さんだなあ」と終わってまず思いましたが、今回は「舞台だなあ」と強く思いました。すうねるところに比べてより舞台らしい空間の使い方をされたのかな、舞台での自由を手に入れたのかな、なんて素人なりに思いました。


春生が久里子の貼っていた湿布を「久里子さんの皮膚」と言った時、亜土夢と一緒に私もぎょっとしました。


これ多分映像で見たらコミカルなリアクションに笑っていたと思うんですよね。それが生の舞台だとダイレクトに物の質感が伝わってくる。その生々しさ。


映像だと映像ならではの演出が楽しめるわけですが。生の舞台を観る機会があまりないので、改めてその違いが面白いなと思ったり。


見えている者見えていない者含めそこに存在するすべての者が食卓について食べるのが手巻き寿司というのが、また切ない気分になりました。それぞれの思いが交錯して全然通じ合っていないのに、食べているのが幸せな家族の象徴のような手巻き寿司。


薬師丸ひろ子さんの久里子は今回も可愛らしくて、でもすうねるところでは年齢不詳の可愛らしさだったのが、今回はちゃんと「母」であり「妻」でした。春生が久里子を思って泣くのがとっても分かります。


渡辺いっけいさんの春生は、久里子を思って歌うところも、湿布を貼るところも、棒で天を突くところも、笑えるところなんですが、コミカルな動きが体全体で「寂しい寂しい」と言っているようで笑いながら切なくなってしまいました。


亜土夢は複雑な役だと思いますが、細田善彦君は淡々と観察しているようで段々と混乱していく様子が丁寧で良かったです。他の役はどんな感じなんだろうとちょっと見てみたくなりました。


最後時間が遡り、赤ちゃんの亜土夢と春生と久里子の他愛もないやりとりが続きます。それを照明の当たっていない食卓について見ている西沢と三浦の二人は私たち観客と同じ目線なのでしょうか。


確かに日常の一部だった、今はもうない幻のような家族の光景は、誰もが持っている懐かしい心象風景のようでした。古い8ミリのカタカタという音がしそうな映像。いつまでも頭から抜けない。それを見ている二人(と私たち観客)。


三浦の見た二つの人影はやっぱり春生と久里子だったんでしょうね。私も三浦と同じようにあの家に住みたいな
と思いました。そんな静かな余韻の残る舞台でした。




−追記−
今年の3月8日に放送された木皿泉さん脚本のラジオドラマ「どこかで家族」が第51回ギャラクシー賞ラジオ部門に入賞されました。おめでとうございます.:*・゜
最終選考の結果は、6月4日(水)開催『第51回ギャラクシー賞贈賞式』で発表とのことです。大賞とれるといいな^^


FMシアター「どこかで家族」


第51回ギャラクシー賞入賞作品一覧