午前三時の月あかり

亀梨和也君と日常ごと。木皿泉さんの事なども。

PARCO劇場「迷子の時間 -語る室2020-」作・演出:前川知大 主演:亀梨和也

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左:パンフレット 右:フライヤー 中下:イキウメ「語る室」の台本

私は知らない。でも、思い出す。想像するとは、知らないことを思い出すことだ。

 『迷子の時間 -語る室2020- 』 | PARCO STAGE -パルコステージ-

作・演出:前川知大
出演:亀梨和也 貫地谷しほり 浅利陽介 松岡広大 古屋隆太 生越千晴 忍成修吾 


 

随分と久ぶりの更新になってしまいました。
書きたい事は色々ありましたが、最近は長文を書くのも面倒でツイッターでつぶやくだけで満足していました。

 

今回も感想というより、ツイッターでつぶやいた事を貼り付けただけですが、まとめておけばまた読み返す事もできるだろうと思い、更新する事にしました。

 

今回の舞台「迷子の時間 -語る室2020-」は、イキウメで過去に上演した「語る室」をベースにしたもの。
作・演出はもちろん前川知大さん。

 

亀梨君にとっては5年ぶりの舞台。前回の「靑い種子は太陽のなかにある」は音楽劇だったので、これが初めてのストレートプレイ(前回の感想は→こちら)。

 

なんかすごいものがきたぞ。というのが最初の印象でしたが、蓋をあけてみてもすごく面白く、意外な事にすごくわかりやすい舞台でした(難解なものを予想していたので)。

 

今回の企画について、前川さんのインタビュー

今回の公演は、新生PARCO劇場のオープニング・シリーズの一作になるのですが、そこで上演するなら、やはりちょっと自信があるものを持ってきたいという思いがまずあって(笑)。

 

5年前に上演した「語る室」の台本を読み返してみると、いま自分の中で大きくなっているテーマが、すでにこの作品に色濃く書かれていて、もう一度そこに戻ってみたいというのがありました。

 

劇団のファン以外にも、もっとたくさんの方に観てほしい作品だなと思ったんですね。ではそれを誰に演じてもらうか。

 

そのときにまず浮かんだのが亀梨さんでした。

 

前回の「語る室」で主人公を演じた安井順平とはイメージがまったく違うんですけど、だからこそおもしろくなるんじゃないかなと思って。

 

それでダメ元でお願いしてみたら、台本を気に入ってもらったみたいで、出演を承諾していただけたという次第です。

 

物語の舞台はある田舎町。

5年前にエンジンがかかったままのバスから園児と送迎バスの運転手が姿を消し、事件は未解決のまま。

登場人物は、園児の母親と叔父、バス運転手の兄、霊媒師、帰る事の出来ない未来人、ヒッチハイカーとその妹。の7人。

 

途中何度か時間が前後し、同じ場面が繰り返される。

そして「そうだったのか」と少しずつバラバラに散らばったエピソードと人物が繋がっていき、事件の真相が見えてくる。観客にだけ。

 

その点と点が一本の線になった時、なんとも言えない切なさやるせなさがこみあげてくるけれども、わずかな光を灯して舞台は幕を閉じる。そんな印象。

 

感情を揺さぶる演出ではないのに(そこがとても良かった)、へんに感傷的になってしまったのは、夕暮れのチャイムせいでしょうか。

 

これを聞くと誰でも故郷を思い出すはず。

人は色々な人に出会い、色々な場所で生きていくけれども、最後は魂は同じ場所へ戻っていく。なんて事を思ったり。

 

最後の譲の語りは台本にはなかったので、今回のオリジナルなんですね。

亀梨君の田舎ののんびりとした警察官ぶりはとても良かったです。

 

さて、後はツイッターでつぶやいた事を貼っておきます。

 

パンフレットに書かれていた前川さんの言葉。

「私たちは自分でよく分かっていないことを知っているのです。そしてその知っているということを知らない」

 

これが全てを物語っているのだと思います。

舞台を観た後に、全ての理解が下りてくる。

漠然としたものだけどはっきりと。

ああ、そういう事なんだな。と。

 

これを書いている時はまだいつかは発表されていませんが、配信の予定もあるとの事。

あの優しい時間にまた浸れる事が出来ると思うと嬉しくてたまりません。

 

 

映画「美しい星」

2017年5月26日公開「美しい星

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原作 : 三島由紀夫
監督 : 吉田大八
脚本 : 吉田大八、甲斐聖太郎
音楽 : 渡邊琢磨
出演 : リリー・フランキー亀梨和也橋本愛中嶋朋子佐々木蔵之介 他

 


美しい星観ました。
ものすごいものを観てしまった。
 
亀梨君が出演した映画の中では、俺俺が一番好きなんだけれども、この美しい星もそれに並びました。すごく面白かった。。。
 
俺俺の時も「なんだったんだろう今のは」と頭がぐるぐるしながら、観終わってすぐにまた観たいと思い、気がつけば何度も映画館に通っていましたが、今回も同じ。しかし上映回数が少なくて時間が合わない(涙)。こういう映画がシネコンで上映されているだけでもすごい事なんだけど。吉田監督のティーチインも行きたかったな。

映画は原作よりSFぽかったです。原作の大杉家はその時代を知らない私から見ると浮き世離れした家族のように思えたけれども、映画では皆とても人間くさい。それぞれが行き詰まっているバラバラな家族。とても現代的。
 
自称宇宙人の非現実的なシーンと超現実的な地球人の母親のシーンが交互にくる。人間なのか宇宙人なのか、現実なのか幻覚なのか、奇妙だけど滑稽で、緻密かと思えばチープで、最後に行き着くのは生と死だし、両極端なものがどんどん入り混じっていく。
 
劇伴がまた良くて(すぐにサントラ買いました)、ここでもテクノから民族音楽風のものまで。宇宙からの未知なる音から地中から突き上げるようなリズムまで、色々な角度から刺激してくる。
 
同時多発覚醒のシーンはすさまじかったです。サブリミナル効果のような、映像と音の洪水に飲み込まれそう。儀式のような手の振り、エレベーターのループ、美しい水は崩れ、そして円盤が現れる。これシンクロニティと言うんだろうか。薬でトリップしているみたい(実際暁子は薬を飲まされてトリップしてるんだろうけど)。音楽が止んだ後も耳鳴りのような余韻が残る。
 
何回か映画館に通っていると、ここで「くるぞくるぞ」とぞくぞくしてしまう。ブルーレイでまた観るのも楽しみだけど、このぞくぞくは映画館で観たからこそ味わえたものだと思います。このシーンだけでも料金のもとはとれたと思えたくらい。ほんとここの演出はすごかった。
 
映画には、地球や宇宙を連想させるものもたくさん出てきました。
重一郎の周りを衛星のようにぐるぐる回りながら話す黒木とか、暁子と竹宮の料亭のシーンでカメラの動きが惑星のようだと思ったら金環日食と言ってる人がいてそれだ!と思ったり(ツイッターありがたい笑)。円盤を呼ぶシーンもでしたねそれ。
 
暁子が持っている竹宮のCDが反射して部屋の天井にも映る円盤。
暁子や重一郎が着ている服も青系が多かった。夜空に星をちりばめたようなワンピースやバックも。
 
あとは水。美しい地球の美しい水。
大杉家の家中に積み上げられた水。覚醒の時に崩れる水。
家全体が水の惑星、地球になったみたいだ。
 
体にいいからと家族にやたら水を飲ませようとする伊余子。でも伊余子が食事の途中で吐いたり、金沢に行った重一郎が路上で吐いてたり、暁子のつわりとか、やたら吐く場面もあったり。
家のトイレから出てきた重一郎の周りにも水水水。
 
リリーさんは、怪演と呼ぶには違和感があるほど自然に狂ってました。あの火星人のポーズとか、あのタメ方とか最高(笑)。だんだんエスカレートしていく様が笑えるけど笑えない。絶妙。
 
橋本愛ちゃんは美しかったです。重一郎と暁子の病室のシーンは、監督からナイフでゆっくりと刺すような感じで、と言われたそうで、そして愛ちゃんも “お父さん...死ね...” という思いで演じたそうだけれども、「火星人も真実を知りたいですか」の言い方の冷たさにぎょっとしました。美しさが凶器になった瞬間。すぐに後悔して泣きながら謝るのも、リリーさんの表情も含めてすごいシーンだったな。
 
中嶋朋子さんはさすがの上手さ。なんともいえない知人宅でのやりとりの演技の細かさ。次第に怪しい水ビジネスに夢中になっていくけれども、手を出した理由が、もう一度家族で海外旅行に行きたいと思ったからだとか、どこまでも現実的なのが切ない。
 
病院で伊余子が子供二人と話すシーンで、「だってあなたたちも太陽系なんとかでしょ」という言葉になんか笑ってしまいました。家族らしいけれどへんな会話(笑)。母はすごい。何があっても母のまま。この人が一番へんなのかも。
 
蔵之介さんは登場からもう宇宙人。原作の仙台の三人組も地球人だと思ったんだけど、映画の黒木は絶対宇宙人ですね。あれが人間のはずがない(笑)。まばたきしないどころか顔の下半分しか動かしていないのでは。目は猛禽類のよう。話し方も現実離れしている。でも感情のないロボットのようではなく、細胞レベルで人間と違う生物という感じ。やっぱり宇宙人。
 
黒木役には最初カラコンが用意されていて、黒目が大きいものだとか少しずつ違うものがいくつかあり、色々つけてみたけれど結局取った時にそれが一番いいとなり、一周回ってそのままが一番宇宙人ぽかった。と舞台挨拶で話が出ていました。
 
黒木の母星がどこなのか分からないけど、自分は原作に出てきた白鳥座61番星の宇宙人だと思って演じていたとも蔵之介さんは話してました。ですよねー。
 
で、亀梨君ですよ。まず思ったのが “黒い” (笑)。もともと色が真っ白な人だからなんか新鮮で。メッセンジャーだから焼けてるだろうという事で、でも仕事もあって陽に当たるタイミングもなくて黒く塗ったそうな。
 
街で会った(おそらくは野球部の)後輩は、もう日には焼けておらずスーツを着込んできちんと就職もしている。自由でいいっすねーと言いつつそこはかとなく感じる意地の悪さ。原作よりも屈折していて、暗い野心とままならぬ怒りを奥にたぎらせている一雄。
 
亀梨君のキャスティングについて吉田大八監督のインタビューからいくつか引用すると、
 
「息子がそれまでの父親を殺して、新しい父親を選ぶということを原作よりもはっきりやろうとしていたとき、亀梨くんをテレビで見て、『家に帰ってこの息子にじろっとにらまれたら、父親はすごく嫌だろうな』と思ったんです(笑)。映画『バンクーバーの朝日』でご一緒したカメラマンの近藤(龍人)さんがものすごく褒めていて、俳優として興味を持っていたということもあります。」
 
「亀梨さんの眼差しの強さが一雄に合うと思いましたし、これは僕自身の勝手な思いですが、彼のまとっている、いろいろな出来事を経験した上での悲しみのようなものが、この映画のある種の悲劇性みたいなものを加速させるようにも感じて、僕のなかでは亀梨さんに演じてもらう必然性がありました。」
 
「音楽やダンスをやってる人の凄さでしょうか、亀梨君は狙ったトーンの音がすぐ出せる。僕の意図するところの理解も本当に早くて、どんどん高みを目指せました。まぎれもない表現者としてのプロフェッショナルがいる、という感じでした。」
 
など。嬉しい言葉だなあ。と、ついつい引用が多くなってしまう。
 
あと他の出演者で印象に残っているのは藤原季節さん。カルテットやCRISISと最近ちょくちょくTVでも見かけるけれど、この映画では暁子の大学の広告研究会の栗田役。話し方がいちいちちゃらくて上手くて面白くて、名刺の出し方がいやな感じでほんと上手くて面白くて、ほんと面白かった、男栗田(笑)。
 
原作では山場でもある討論の場に一雄はいませんが、映画では一雄を交えた討論になっていました。
 
吉田「この映画における僕のチャレンジは、一雄と重一郎、政治家秘書の黒木の、三つどもえの討論シーンです。原作では、あの場面に一雄はいないんです。でも僕はあそこで、息子が父にどう立ち向かうか、そして自分じゃない敵の手で倒されていく父の姿を息子がどう見守るかを描きたかった。それがこの話を映画にする上でのキーになると思っていました。」
 
父親を、親世代を糾弾するように討論は始まる。父親がダメージを受けているのを察して段々と変わっていく一雄の表情が良かったです。屋上へ上がった時もカメラは一雄をずっと追っていて、他の人達がパラパラと屋上に上がって来る中、ゆっくりと父親に近づき茫然と見ている。
 
「自然とは、宇宙と地球がエネルギーを交換するプロセスと結果でしかない」と言った黒木は、結局は人類が生き残ろうと滅ぼうとどうでもよかったんだろうな。いずれ人類は滅ぶからどのタイミングでくるかそれを観察しているだけ、という気がしました。重一郎のような人間が出てくると息子の一雄を使ってつついてみたり。
 
討論の場面でも、当の地球人達は周りでぽかんと見ているだけというのがなんともおかしい。と同時にこうして人間は自分達の身の周りの危機を最後の最後まで実感せずに滅びていくのだろうかと薄ら寒く思ったり。最後に出てくる赤いボタンも、ああして「いかにもなボタン」を目の前で押されて初めて世界の終わりを意識するんだろうか、人間は。終わるのは人間の世界で地球は変わらずあり続けるのだけれども。
 
あの赤いボタン、舞台挨拶でも「今の時代にあのアナログなボタンて」と盛り上がっていました(監督も「そんなに言われると思わなかった(笑)」と)。
 
例えばあそこでスマホのようなものを取り出しタップしたとすると、テロのような被害の大きい爆発を連想してしまう。それがあの赤いボタンだと即「核のボタン」だと思い、イコール世界の終わりを連想して震え上がってしまう。
 
でも見た目はおもちゃのようなチープなボタン。中を開けてみてもなんにもない。でも黒木は確かに何かのボタンを押したのだろうし、カウントダウンは確かに始まったのだろうし。
 
それがどこからくるのか何がくるのか分からない恐怖。でもあのボタンは本当にただのおもちゃだったのかもしれない。本当の事は分からない。
 
病室で、父と息子、父と娘、夫と妻、母と息子と娘。バラバラだった家族が集まってくる。そしてやっと家族四人が揃った(四人揃うシーンて最後のここだけですよね)。

そして観た人によって解釈が分かれる最後のシーン。
 
吉田大八監督はインタビューで、
 
「実際に起こっていることと人が見ているものとは何が違うんだろう、究極的には同じことなんじゃないか、と僕は思っているんです。そして原作がその境地まで達しているので、映画もそこまで行き着かなければダメだと思った。その分、観る人によって解釈の分かれる開かれたラストになったかと思いますが、僕が原作に感じた魅力も、読み手の想像によって結末を自由に解釈できる、まさにそこでしたから。死んだらどうなるかなんて誰にも正解は分からないんだから、あのラストが本当に起こったことなのか重一郎のイメージの中の世界なのかは、どっちも正解だし、どっちも違うと言えば違うという以外にないんです。」
 
と話していました。
 
私は、重一郎も一雄も暁子も宇宙人だと思い込んでいた地球人で、最後の最後に本物の円盤が出現した、と思いました。
 
自分の奥底に澱のように積もっていった疎外感や劣等感や虚無感は自分を宇宙人とする事で優越感や使命感となってすくい上げられ、孤独や絶望はSFではロマンに変換され、その恍惚の中脳内で実体化したのが円盤なのかなーなんて。
 
人間の頭の中こそ果てしなく広がる宇宙(コスモ)だ。どこまでも都合がよくてたくましい。そして最後ついに本物の円盤を呼んだ、と。
 
TV局のADが「UFOって、結局ロマンだと思うんですよ」と言っていたので、私もそう思いたい気持ちもあって(笑)。
 
家族で円盤を見た後、重一郎は死に、意識だけが円盤に乗ったのかなと思いました。でも実際の円盤は多くの目撃情報と同じくすぐ消えたと思ったので、重一郎が乗った(と思ってる)円盤の内側も宇宙人の声も、あちら側(あの世)からのお迎えを脳内変換したものじゃないかなと。SF風に。円盤で重一郎が生きている時と同じ姿をしているのは肉体の記憶のせい。そして死の直前の家族で円盤を見上げている映像を、重一郎の消えゆく意識が見ているのかな。走馬灯の最後の映像なのかもしれない。ちょっと違うか。でもきっとそのようなもの。
 
月刊シナリオに美しい星のシナリオが載りました。シナリオの最後はこんなト書きで締めくくられています。
 
“どこかの小さい山の上、その頂きに走ってくる四人の家族が見える。そして空を見上げる。祈るように。”
 
映画では遠くて家族それぞれの表情は見えないけれど、映画のパンフレットの最後の頁にその場面が載っています。このシナリオの最後の言葉のままの表情で。
 
“祈るように”
 
朴木Pはこの映画を「吉田監督のこれまでの作品を貫く “あなたの見ているものは本当ですか?” という問いかけの到達点ともいえる作品」と話していました。
 
本当にそう。こうして感想を書いているそばからまた解釈が変わってくるような、何度でも振り出しに戻されるような映画でした。

 

映画「PとJK」

2017年3月25日公開「PとJK

原作 : 三次マキ
監督 : 廣木隆一
脚本 : 吉川菜美
音楽 : 大橋好規
出演 : 亀梨和也、土屋太鳳、高杉真宙玉城ティナ西畑大吾 他 

 


 

PとJK観ました。泣きました。まさかの。

 

正直、映画が発表になった時は「なんで今更キュンキュン映画?」と思いました。そこを通らずにこれまでこれたのに、それがラッキーだとも思ってたのになんで今更と。亀梨君のファンとしてね。

 

でも廣木監督と聞いて、去年のSPドラマ「美しき三つの嘘」の「炎」が好きだったので、そこでちょっと期待が持てました。このドラマの土屋太鳳ちゃんもすごく良かったしね。監督の映画はちゃんと観た事がなかったので発表の後いくつか観ました。今放送中の廣木監督が総監督のドラマ「火花」もすごく良いです。

 

それでも根強いキュンキュンアレルギーのせいでまだ半信半疑だったけど、実際観たらキュンキュンはあえて抑えてある印象で、どちらかと言えば重い内容でした。あの予告に期待して行った人は楽しめたんだろうかと心配になるほど。脚本にあったキュンキュン部分も監督が結構削っていったと亀梨君も話してたっけ。

 

監督はインタビューで、

廣木「少女漫画が原作なんだけど“結婚で縛られた”っていうのかな、そういう男と女を描けるんじゃないかなと思って受けたんです。僕、相米(慎二)さんの『翔んだカップル』も割合に好きなんでね。結婚が男と女の中でどういう在り方をするのかっていうのをやってみたかったというのが一番大きかった」

とおっしゃってました。

 

なるほどなーと思ったので感想を残す事にしました。解釈が人と違うかもしれないけど、思った事をそのまま書きます。思いっきりネタバレしてます。

 

映画を観てまず思ったのが、よく言われているように引きの画と長回しが多い事。大事な台詞を話している時も引きが多くて、でもアップになる時はこれでもかというほどのアップ。その差が独特で面白いなと。カットが切り替わるとグンッと奥行きが出る。自転車に乗った歌子ちゃんが長回しで流れるように走っていくと更に奥にも横にも広がる。空間の広がりがありつつも、引きが多いから人物が遠く函館の美しい風景に溶け込んでいて、カメラのファインダー越しに見ているよう。それだけで涙腺がゆるんでしまう(恥)。懐かしいポストカードを見てるみたいで。

 

結婚以外の一つ一つのエピソードは少女漫画やTVドラマにありがちなもの。そこにひねりは全くなし。高校生の歌子ちゃんなら、結婚してなかったらそのまま普通の学園ドラマになり、警察官の功太は結婚してなかったらそれらは普通のお仕事ドラマになりそう。恋愛がそこに絡んできたりね。それが、二人が結婚するという設定を入れると、それを取り巻く人達の様々な人間関係が入り組んでくる。立場も変われば見方も変わる。そこが見所なんでしょうかね。

 

土屋太鳳ちゃんの歌子ちゃんは、キラキラして眩しくて懐かしいものの塊でした。とにかく可愛い。声も可愛い。演じてると思えない嫌みにならない純粋さ。純粋と鈍感を勘違いしている演技を見るとイラッとする事もあるんだけど太鳳ちゃんは全くない。そして「鈴木先生」の頃から変わらない透明感。「炎」の後、廣木監督とまたお仕事したいと話してたけど今回それが叶ったね。

 

大神役の高杉真宙君も良かったー。
高杉君は「清盛」や「ゴーストライター」くらいしか見てなかったけど、友達だからと言われた時や功太に頼れよと言われた時とか、いちいち涙ぐんでしまうのが可愛かった。ナイーブで繊細な子というより、案外素直で、ただ家庭環境ゆえにグレちゃった。でもお母さんの事もちゃんと想ってる。というとっても素朴な不良君でした。歌子ちゃん達と友達になるのも躊躇する事なく早かったね。変顔がすごくて笑いました。やりきったねー(笑)。

 

亀梨君は頑固で真面目で融通の利かない警察官という役がすごく合ってたな。真っ直ぐなまなざしも功太という人をよく物語っていました。

 

いいなと思った子でも十七歳と分かるといきなり大人の顔になって、人生なめくさってる子供に言うように「クソガキ」と言って大人の怖さを出してみたり。絶対めんどくさいぞこの人(いきなり結婚しようと言う事からしてもうやばい人っぽいけど)。

 

亀梨君は今回「キメないように」とか「かっこ良くならないように」とか「生っぽさ」という言葉をインタビューでよく話していました。引き算の演技をしたと。

 

ジョーカーゲーム」の時に入江悠監督が、スパイの様式美のようなものを感じたという感想に対して、それは亀梨君が普段アイドルとして身についている立ち振る舞いが大きんじゃないかとおっしゃってました。昔の時代劇で歌舞伎役者が見得を切るのに似ていて、振り向いただけでピッと決まる感じとかなかなか普通の俳優さんでも難しいと。

 

そういうスパイ映画の時には効果的だった動きを今回は一切出さず、普通の男性とも少し違う警察官という職業からにじみ出る日常の立ち振る舞い、のようなものが自然に出ていて良かったです。その職業の人の普段からの動きぽくて。全くのプラベでもどこか気を張ってる部分があるというか。

 

アクションも今回は警察官だから、殴るというより取り押さえるアクションで、派手ではなく少ない動きで確実に取り押さえるアクションが綺麗でした。

 

高校生に見せる大人としての顔と、先輩警察官に見せる年相応の顔と、歌子ちゃんの両親に見せる誠実な若者としての顔と、警察官として市民に見せる公の顔とで全部違って、歌子ちゃんに見せる顔はプラベが入ってきて少しずつ変わってきたりとか、大神君には昔の自分を重ねたのか最後は兄貴っぽかったり、それぞれ良かったです。

 

さて、なぜ功太は出会ってすぐに結婚しようと言ったのか、という謎なんだけども(大げさな)。一応原作は読んだけどよく分からなかった部分。

 

歌子ちゃんの「ありがとう」や「ごめんなさい」をちゃんと言えるところも、クソガキと言われた後に「功太君は警察官だったんだね。かっこよかったなー」と言えちゃう屈託のなさも素直さも、高校生の頃の功太にはきっとなかったもので、そういう純粋なものに触れて、過去と重なるような出来事もあって、離れがたい思いの先に、ふと口から出てきたのが「結婚」という言葉だったのかなー。あの、日常とは違う病室という狭い空間で。 なんて思いました。

 

相手の為に離れる事よりも、能動的に守れる方を選んでしまい、一度口に出したら非常識と分かっていても、ある意味の純粋さもあってそのままつき進んでしまったのかな。若さのせいなのかもしれないし、止まっていた時間が動き出してしまったからなのかもしれないし。

 

そして歌子ちゃんは結婚という言葉の重みも感じないまま、ただ功太と恋愛をしたかったから結婚した。結婚かもう会わないかのニ択で。

 

この映画はそんな未熟な二人の、結婚という名を借りた恋愛の物語なんだなーと思いました。

 

功太の守り方は警察官の守り方のようでも父親の守り方のようでもあるけど(大神君に近づくなと言ったり)、功太の恋愛の仕方は守る事だから、功太の事をもっとを知りたい歌子ちゃんとすれ違う。

 

亀梨君のインタビューで、

ーー覚悟はしたけどそのまま安直には進まないところの面白さ、といいますか。功太は結婚という形でカコとの関係性に「安心」を得ようとしたのかもしれませんが、そのとおりにはいかない。結婚という結びつきが絶対ではないという物語ともいえます。

 

亀梨「功太の中では、警察官としての責任感が先行していたんだと思います。カコちゃんという女子高生に対する恋愛への向かい方にも、警察官としての自分の責任の取り方をまず考えた。それが作品の中で「難しさ」につながっていって、功太も葛藤していく。警察官という立場を背負っていない自分って何なの、とか。カコちゃんのご両親からすれば、どう見えるのか、とか。

-中略-

そういう立場や事情って誰にでもある。その中で、ひとりひとりがどういうバランスで生きていくかっていう事だから。もちろん、僕はまだ結婚もしていませんし、子供もいませんから、そんなに大きな事も言えないところではありますけど、ここに親として、夫としてという立場が出てくると、どうなるのか。家族として、息子として何が出来るのか。兄として、弟として何が出来るのか、とか。先輩として、後輩として・・・。そういうふうに僕にもみなさんにもいろいろな立場があって、その中で生きている。そういうものを全部取っ払い、なくすことで、最後「自分」だけになったときに、何を考えるのか、何を大事にするのか。そういうバランスの難しさが、この作品のテーマのひとつでもあるんじゃないかなって思うわけです」

と話していたのが印象に残っています。

抜粋できずに引用長くなってしまった^^;

 

廣木監督はインタビューで「ストロボ・エッジ」と「オオカミ少女と黒王子」とこの「PとJK」で三部作だとおっしゃっていました。

 

ストロボ・エッジ」と「オオカミ少女と黒王子」では意図的に大人を出さないようにしてきたけど、今回はさすがに出さざるをえないと思って意図的に出している、とも。

 

そう、この映画では、功太と歌子を取り巻く大人達もまたすごくいいんですよね。

 

歌子ちゃんの両親は村上淳さんとともさかりえさん。村淳さんが平凡な父親役って珍しい。功太と二人で話すシーンが良かったな。まだ心の準備が出来ていないけど、娘の幸せをただ願う父親のぽつぽつとした話し方と全然痛くない渾身のパンチが。ともさかさんは「真夜中のパン屋さん」でも太鳳ちゃんの母親役でした。今回は、とまどう父親も夢見る娘もフォローし優しく見守る母親。

 

この夫婦のやりとりも可愛らしくて、歌子ちゃんが愛されて育った事がよく分かる。両親が亡くなり、姉も外国で暮らしていて、生まれ育ったあの広い家に一人で住んでいる功太との違いがここにも。

 

「(姉は)『家族が増えるね』と言ってくれました。」という功太の台詞も事情を知ってから考えるととっても切ない。

 

父親のお葬式の後、謝る功太に姉が言った言葉。「おまえが助かって姉ちゃんは嬉しい。ごめんなさいよりありがとうと言えるように、胸張って生きてけ」この言い方が凛として優しくて厳しくて愛情があふれていて、姉役の河井青葉さんはこのシーンだけの登場だけれどもすごく印象深い、いいシーンでした。

 

大神君の母親の江口のりこさんも、男を見る目はないけど息子には優しくてほっとしました。大神君が根は素直でいい子なのも母親の愛情があるからなのね。

 

あと功太の上司のトモロヲさんとか大政絢ちゃんも良かったな。功太を含めた3人のシーン好きでした。

 

大神君が抱えている問題に対して功太は歌子ちゃんに「君は部外者だ」と言ったけれど、高校の友情部分では功太の方が部外者で、大神君との関わり方が歌子のそれとははっきりと違って。二人の立場の違いを浮き彫りにする為にも大神君の存在てこの映画で大事だったんだなと思いました。

 

その違う巧太と歌子の日常が文化祭で重なる。功太は学ランで大神君は警察官の制服で、ふと錯覚しそうになる。学ランを着て普通に教室にいる功太。随所に出てくる制服が意味するもの。文化祭からその後の事件までの一部始終は、功太が高校の時のあの事件を追体験してるみたい。

 

そうして今度こそ愛する人を守れた功太だったけど、歌子ちゃんに過去の自分のような辛い思いをさせてしまった。歌子ちゃんも覚悟が出来てなかった自分をはっきりと自覚したのかな。

 

「おまえは十年後の自分が想像出来るか?」と功太は大神君に聞く。「俺は十年前、今の自分を想像出来なかった。想像できないという事は可能性があるということだ」と。

 

大神君は十年前の功太という見方もあって、同時に大神君はこれから始まる物語の全ての可能性だ。

 

功太と歌子にももちろん可能性がある。
講堂での功太の演説。真っ直ぐな功太の心からの言葉は真っ直ぐに歌子に届く。そしてあの幸せなEDへ。

 

マリー・ユーが流れる中、手をつないで校内を歩き、生徒達が二人の後ろを祝福するように踊るようにしてついてくる。校門を出るとそこにはパトカーが。ブライダルカーのように空き缶がいっぱいついてる。この幸せすぎる遊び心に泣き笑い。

 

この遊びの部分に、タイトルから想像する、かっこいい警察官と純粋な女子高生の、夢のようなキュンキュン成分をすべて詰め込んだみたい。辛い展開が続いたからことさら嬉しい。

 

ニュースでよく見る警察官の不祥事は、小中高校生などへの猥褻行為が多いけれども、そんな悪い部分の警察官のイメージに反発しているようにも思える。「おまわりさんはかっこいいんだぞ。女子高生が恋をするくらいに」っていう。

 

年齢や職業や立場の違い、そういったものを全て受け入れて一緒に生きていく。これが本当のスタートなんだね。もう制服には縛られないから制服のまま手を繋ぐ。おとぎ話のラストみたい。なんて清々しいんだ。

 

でもおとぎ話じゃないから、その後の二人だけの時間もちゃんとある。今はただ甘いけど、本当に大変なのはこれから。

 

そういえば文化祭のシーンで大段幕に書かれた文化祭のテーマが「大地と未来」でした。この映画みたいだ。果てしなく広がる北海道の大地の向こうには二人のキラキラした未来が続いている。

 

その文化祭でブラスバンドが奏でる「シュガーソングとビターステップ」が素敵でした。演奏してたのはこの映画の撮影に使われていた高校の生徒さんだそうで。現役の説得力やばい。ふいに青春にふれると懐かしさにうるってきてしまう年頃です。甘酸っぱい。

 

キラキラした若い高校生でも将来への不安があり、社会に出た若者でも生きづらさを感じたり、親となった世代でも葛藤が続く。

 

それぞれの年代なりの悩みがあって、でもそれぞれの年代なりの解決の方法があって、周りの人達に助けられて。いくつになってもそんな事を繰り返す、懲りない優しい愛すべき人達。

 

そんな繰り返される大切な日々の一部分を切り取ったような映画でした。

KAT-TUNという夢を見ている

 

 

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ライブのパンフレット(左)と、KAT-TUNのオフィシャル・ピアノ・スコア(右)と銃型ペンライト。

 

KAT-TUNの充電前のライブに行ってきました。東京ドーム、4月29日と最終日の5月1日。ブログを書くのが久しぶりなので文体が統一されてないけど自由に書きます。ライブの雑感と充電について。どうしても亀梨君中心になってしまうけど。ライブDVDが発売されたら曲ごとの感想をもうちょっと書くかも。

 

最終日に上田君が「最後の出航だー!」と叫んだ時「そうか、これでしばらくライブはないんだ」と実感(それまでは「出航だー!」だった)。

 

GOLDのイントロが流れる。メインモニターには海賊旗と荒れ狂う海と稲光り。噴き出す水。客席はペンライトの紅い海。嵐の中の出航なんてKAT-TUNらしいな。

 

レポで読んでいたけど本当にステージには3人だけ。バックのJr.もダンサーも生バンドもなし。巨大な船のセット。特効はいつもと比べるとやっぱり控えめかも。でもUNLOCKなど使う所では惜しみなく使う。色とりどりの照明、蜘蛛の巣のように張り巡らされたレーザー、炎、花火、水。

 

3人だけでライブをする事については、亀梨君がラジオで、

とにかく今回この10Ksというのは、自分は絶対3人でやるんだという所からスタートして始まって、結果的にその形がすごくメンバーも納得してくれたし、ファンの方達も凄い喜んでくれたので良かったなと思いました。

 と話していたので、発案は亀梨君なのかな。

 

シューイチのライブ密着で中丸君も、

今回はダンサーさんとかはつかないんですよ。3人というグループをストレートに伝えるためには、3人で全てを作ったほうがいいんじゃないかという意見が出まして。

 と話してました。

 

普通、人数が減ればバックで補おうとするじゃないですか。どんなに個々に力のある人でも、登場でまず「少ない」と思われたらマイナスからのスタートじゃないですか。KAT-TUNが6人の時だってバックがついていたし。それをKAT-TUN史上最も少ない「ステージにいるのが3人だけ」という状況で、それでも全く物足りないと思わない、ドームが広いと思わない、そんなステージを作り上げた3人の覚悟と度胸と実力を誇らしく思いました。


歌は勿論生歌。ずっと踊ってるのにそれでもブレない歌。ずっと歌ってる。すごいすごいすごい。私がこのライブで一番びっくりしたのが歌の安定。


去年のライブ “9uarter” とぜんぜん違う。 “9uarter” は、ど派手(これはいつもの事)で何でもありのお祭り騒ぎのようなライブで、すっごく楽しくてすっごく好きだったけれど、歌の部分では不満もあった。けれど、今回は全くなかった。ゼロ。


特に亀梨君はよく声が出てるし伸びるし、踊ってもブレないし。2日間ともそう。本当に歌が上手くなったんだなと嬉しかった。


あと、亀梨君と言えばMOON。このブログ名の元にもなっている小説に「午前三時の月あかりが一番赤い」という言葉が出てくるんだけども、MOONという曲はそんな感じ。魔の月が昇る。でかい。ぬうぅっと映し出された月がとにかくでかい。女性詞だからか、月のものから連想される血のいろ。長襦袢の緋色。そんなイメージ。

 

MOONはそれぞれマイクスタンドに着物を羽織らせ、女性に見立てて歌うという演出。それを亀梨君は、唇を寄せるわ手でなぞるわ押し倒すわ最後は覆いかぶさるわで。そうなったのは東京からだそうで、29日の東京初日はドームのどよめきが凄かった。なんだ何が始まったんだっていう。どよめきから悲鳴のような歓声に変っていって...


29日の方はちょっと物狂いのようでぞくっとした。禍々しいほど美しくて残酷なもの。DVD撮りはこっちが良かったな。1日はねっとりエロス。夢魔のよう。ファンは火に焼かれると分かっててもそこをめがけて飛んでくる羽虫かもしれない。KISS OF DEATHという言葉が思い浮かんだけど、この言葉の由来って「ユダの死の接吻」なんですね(今知った)。

 

このMOONについても亀梨君はラジオで、

MOONは俺もなんでこんな流れになったか覚えてないんだよね(笑)。もともとマイクスタンドに着物を着せてっていうのは自分が言って。あの曲は和の印象があるから。かといって衣装で和を着るのは中々難しかったので、じゃマイクスタンドに着物を羽織らせてみるのはどうですかってことでスタートして。最初着物屋さんみたいに綺麗にパシッと着物が飾られたんだけど『もう崩しちゃって!雰囲気があればいいから』って言って崩して。で女性に見立てて。テンション上がったんでしょうね。初日やったもんだから2日目3日目もやった方がいいなと思ってやったんだけど。初日はテンションあがったんでしょうね。あんまり記憶ないんだよね。なんで自分があの流れにしたのか(笑)。

 と話していて、この人の発想力、自己演出力は凄いなと改めて。そして記憶がないというのも納得できるくらいなんか憑いてた。29日は。

 

ちなみに上田君はマイクスタンドをかついで歌い、中丸君はマイクスタンドを放置して歌ってたそうだけど、亀梨君しか見ていなかったのでライブDVD出たら確認します(ごめんね)。

 

歌に関しては上田君も今までとは声の出し方が違うみたいに強い声が出ててびっくりした。3人の声質だとどうしても亀梨君の声が強くなってしまうと思っていたけど、この声があれば大丈夫かもと思えた。GOLDやTHE D-Motionで中丸君の低音が聴けたのも大きいかも。

 

RAYはバクステで一塁側、正面、三塁側と三方に分かれて歌い、正面が上田君。ナイス配置。RAYは私にとっては上田君の曲なのです。歌もいいけどダンスも良い。自由に踊る上田君を見て、振付師がアーティストの自由を奪っちゃあダメなんだなあと改めて思う。ちょっと人を食ったように踊る。茫然とペンライトを振るファンをせせら笑うかのように踊る。

 

1日の私の席はちょうど正面の上田君と三塁側の中丸君の間だったので、上田君と中丸君を交互に見てました。中丸君のダンスもちょーかっこいいんですよ。上田君のダンスとはまた違う細かくて指の先まで意識の行き届いたダンス。

 

STAR RIDERでレーザーを操るダンスも良くて。手を交差させたり、細かく動かしたり、ああいうダンス得意だし好きなんだろうな。自分の手の美しさを分かってるのかなあ。分かってるんだろうなあ。これで猫背さえ治れば... と思わずにはいられない今日この頃。かっこいからこそ思う。

 

上田君と中丸君のダンスを交互に見ているうちに、初めてロバ丸にシンメを感じました私。すっごい今更でごめんなさい。シンメとはいくら仲が良くてもステージ上でパフォーマンスとして正しく機能していないと魅力を感じなかったんですよ。正しく機能とは対という事。今回は上田君がよく踊ってたからかな。並んで踊っていたわけでもないのにすごくシンメ。ビジュアルのバランスもいいし。

 

フロートに乗り肩を組んで歌うKAT-TUN最後のシンメ、ロバ丸。もう一方のフロートには最初にシンメを失った亀梨君。鼻の奥がツンとなりながらも3人てそういう数字なんだなと寂しく思いました。誰かコンビになるともう1人がぼっち。そういう今まで気にならなかった部分が気になるようになるんだね、アイドルは。シンメと絶対的エースで分かれるのは自然なのかもしれないけど寂しい。

 

中丸君は最初声が少しきつそうだったかな。でも、いつも最初は力みがちな歌いだしで、だんだんこなれて良くなっていく印象だったけど、今回はそれほど力みを感じなかった。どなたかの感想で、テクニックでカバー出来る歌い方になってたとあったけどそうかもしれない。

 

さっきも書いたけど、中丸君はGOLDやTHE D-Motionの低音が素晴らしくて中丸君の低音担の私は大いに喜びました。GOLDで歌った時の歓声はすごかったな。皆さん低音好きよね分かります。THE D-Motionでも赤西君のパートを元verのまま歌って嬉しかったし凄く良かった。

 

THE D-Motionで花道を練り歩くKAT-TUNのかっこ良さは6人の頃から変わらない。

 

4人のKAT-TUNが四神だったなら3人のKAT-TUNは三神でしょうかね。三神一体。なんて言葉を思い浮かべながら見ました。

 

宇宙原理の中でブラフマーは創造を、ヴィシュヌは繁栄維持を、シヴァは破壊を担当する。三神は宇宙原理の3つの顔であり、究極的には三神は一体のものである。だそうな(←詳しくないので帰ってから調べた)。

 

春夏秋冬はドームのどこかで田口君が頬杖ついて見てるような気がして、切なさが最高潮に。歌うパート増えたねみんな(涙)。

「何げない 日々のこと 笑ってまた 話せるように」

 

In FactやKISS KISS KISSのイントロが流れただけで「キタキター!!!」って上がる感じはなんなんでしょう。

 

In Factは全身の血がドクドクと波打ち、リズムが地続きでお腹に響く、というのはcome hereの時も書いたけど、アリーナでなくてもそうだった。ライトサーベルで戦ってるみたいな緑のレーザー。いつかやられるきっと。

 

KISS KISS KISSでドームが一気にキャバレーになりました。イントロで目の前がカッと赤とピンクに染まる瞬間。バズ・ラーマンムーラン・ルージュみたい。享楽の夜の王国。妖しく誘う高級娼婦たち。夢と現実が交錯する大人のファンタジー。美しくも儚い乱痴気騒ぎ。あああ、好きー!

 

KAT-TUNのライブは、ラスベガスと言ってた人もいました。わかる。

 

TRAGEDYが今年の曲なんて信じられないわー。ドームだと曲の突き抜け感が倍増。研ぎ澄まされたKAT-TUNがそのまま空高く飛んで行きそう。

 

UNLOCKは、すべての特効をこれでもかというほど使ってて宇宙戦争みたいだ。間奏の暗転、ダンスがぞくぞくするほどかっこいい。派手すぎる特効がピタッとやむと、暗い照明の中むくむくと立ち上がる得体のしれなさ。その迫力。

 

曲自体は上がる曲というよりクールでかっこいい曲なので、ライブの山場にもってきたのが意外だったけど、最新シングル曲を山場にもってきたいという気持ちがあったのかな。その4人体制最後の曲が現時点で唯一の3人の曲につながる。

 

本編最後の曲はスガシカオさんに作っていただいた「君のユメ ぼくのユメ」。

 

ツアーの当初のセトリではこの曲とPRECIOUS ONEが逆だったみたいだけど変えて正解。

 

この曲はバラードと呼ぶには強い曲だから、アンコールよりは本編最後がふさわしい。Real Feceのアンサーソング。強いメッセージのこもった曲。夢ってリアルを手に入れた者だけが見る事の出来るものなのかもしれないね。


歌い終わって、白いコートを翻してメインステージに戻っていく3人の後ろ姿を見て、これは何の悪い夢だろうと思った。あまりにも真っ白すぎて眩しすぎて、天国みたいだ。そのまま消えてしまいそうだった。でも挨拶をする3人は人間くさくて真っ直ぐで、浄化されて昇天するのでもないと分かった(当たり前)。

 

挨拶で亀梨君が6人の名前をフルネームで言ってくれました。「KAT-TUNはこの6人で結成されたグループです」と。

 

そうなんだよ。KAT-TUNてグループ名は「結成時にメンバーの頭文字からグループ名を取った」っていうそれ以上でも以下でもない事なんだよ。今いるメンバーの頭文字を常に表してるわけじゃあないんだよ。今もKAT-TUNは6人だって言いたいわけじゃなくて、スタート地点はそこだったっていう、とってもシンプルな事。と思ってた、ずっと。5人になった時に、KAは亀梨で成立するとかジャニーさんが余計な事を言うから、いつの間にかネタのようになっちゃってたけど。

 

亀梨君の挨拶はそのグループ名と、あと抜けていった人のファンで今もその面影を追いながらもこの場にいるファンをも肯定してくれたような気がした。私は亀梨君のファンだけど、赤西君や聖君や田口君のファンのためにも嬉しかった。ありがとう。

 

挨拶の後にハグする3人は、白い子犬が離れがたくてじゃれているようで可愛かった。3人とも細いな。さっきまであんなにしっかり話してたのに、この時は稚い子供みたいだった。

 

子供のようにくしゃっと顔をゆがめて泣く中丸君。そんな中丸君を笑ってたくせに段々こみあげてきて泣いてしまった上田君。亀梨君は目を潤ませながらも強い目をして真っ直ぐ前を見ていました。この人は舞台の挨拶の時もそうだったけど、前を見る時は会場の客席のもっとずっと遠くを見てるみたいだ。


メインモニターは、ライブの始まりは大海原だったのに最後は宇宙空間のよう。3つの扉からメンバーが出ていくと、その扉の周りに映し出されていた光は彗星のようにそれぞれ宇宙空間に消えていった。

 

そして残るは二十億光年の孤独の闇(谷川さんの詩が好きです)。ああ、本当に行ってしまった。寂しい。

 

でもアンコールで戻ってきた3人は笑顔だった。ファンにも笑えー!と言った。言われなくても楽しくて楽しくておかしくなりそうだった。

 

3回のアンコールの後、最後の最後に歌ったのがPeacefuldays。6人のイニシャルをひたすら連呼する曲を、いつまでも大切にしているメンバーが大好きだ。

 

ユメの続きは充電後に。

そして充電期間が始まりました。

 

充電という決断にどこまで事務所が絡んでるのか分からないけど、このまま走り続ける事、充電、解散、色んな選択肢があったはず。そして亀梨君がTV番組で言ってた、増員というのも可能性として有りだということ。

 

選択肢が増える事はいい事だ。その選択をしないですむ方法も一緒に考えられるから。全ての可能性を考えられる人が一番強いんだ。

 

現実を見ていないとファンに夢なんか見せる事は出来ない。充電という事はグループでの露出がない事。その事でファンも減るであろう現実と、このまま何もなかったように走り続けて息切れして失速する事。KAT-TUNのクオリティを落としたくないというプライド。

 

そういったものを天秤にかけて考えて考えて充電という選択をしたんだなと思った。

 

抜けたと思った棘は、抜けずにそのまま体中をめぐり元の場所に戻ってきただけなのかもしれない。抜くのは諦めて体に棘を含んだまま生きていける体をつくろうとしているのかもしれない。2年周期という負の呪縛を解いて逆に再出発として利用しようとしているのかもしれない。

 

段々何言ってるんだか分からなくなってきましたよ。

 

「今あんたは、より高く飛ぶためにより低くかがんでいる状態なんだ」とは、SWANでレオンが真澄に言った言葉(確か)。今のKAT-TUNもきっとそう、と思うことにしました。 

 

もし、事務所の言う事を素直に聞き、リーダーを作り、ぶつかり合う事より譲り合う事を優先し、明るくポップで万人に好かれるパフォーマンスをする。という全て逆を行っていたら、こんな心揺さぶられる歌も全身の毛が逆立つようなパフォーマンスもなかった多分。それならいらない。安定の10年なんていらない。というか、もしそうなっていたら10年もたずに解散していたかもよ? だから、あなたたちは間違ってなかったんだ、と言いたい。

 

結成時から比べて人数は半分になってしまったけれど、それでも憧れ続ける後輩達がいる事、何度も死ぬような思いをしながらもついて行くファンがいる事、それが全てなんじゃないかな。

 

ただ事務所がもっと彼らを理解してくれてたら、味方がもっといたらという気持ちは勿論ある。事務所内の事なんて全て想像だけど、ファン側から見てそう思う。そうとしか思えない。これを言ったらキリがないので黙るけれど。

 

ライブを見て、こんなに素晴らしいのに、3人でも全然大丈夫なのに物足りなくなんかないのに、なんで充電しなければいけないんだろう。とまた思う。繰り返し思う。分かったつもりでもまた振り出しに戻る。

 

でも上田君がファンも戦って下さいと言った事は、そんな自分の気持ちとも戦って欲しいという事なんだろう。マスコミが解散とか自然消滅とか騒いでも、世間から「まだいたの?」と言われても、待つことを諦めない。それも戦う事なんだろう。そして本人達はもっと凄い渦の中にいる。

 

一定の条件下でしか見られない一瞬の奇跡、ダイヤモンドダストのような輝きを10年間見せ続けてくれた。奇跡の輝きを、10年見せ続けてきた事も奇跡だ。

 

不安定な時でも、でっかい打ち上げ花火を10年間どっかんどっかんと上げ続けてきてくれてありがとう。本当に綺麗だった。何人になっても、どの時代も最高峰だった。10年間最高の夢をみさせてもらった。

 

お別れの言葉みたいになってるけど、違います(笑)。10周年の感謝の気持ちです。てんくす!これからもよろしく!

 

充電という選択が未知すぎて、何をすればKAT-TUNの道筋に戻れるのか、メンバーも多分分からない。でも未知だからこそ思ったより早く戻ってこられるかもしれない。1年2年なんて自ら設定した数字に縛られる事はないんだよ。半年で戻ってきてもいいんだよ。そんな生半可な覚悟じゃないのは分かってるけど、ファンくらいはそう言ってあげたい。言ってあげたいけどその言葉に甘える人達でない事も十分分かってる。だから納得出来るまでやっていいよ。何をするのか分からないけど。おとなしくはしてないけど待ってる。

 
東京ドームで最後にみんなと見た夢。その夢の続きがまた見られる日まで。

木皿泉さんの講演に行ってきました

10月10日にNHKカルチャーの木皿泉さんの講演に行ってきました。

物語は日常から生まれる ~木皿泉 創作の秘密~

 

いらしたのは年希子さんのみでしたが、楽しいお話がたくさん聞け、サインもいただき、握手もしていただき、少しお話も出来て感無量でございました(涙)。

 

ドラマ「すいか」を見て河野Pと木皿泉さんのファンになったので、亀梨君よりファン歴は長いんです。(亀梨君は野ブタを見てファンになったので)

 

神戸にお住まいの為、講演会はどうしても関西中心になってしまうようですが、今回貴重な関東での講演会。行けて本当に良かったです^^

 

もう時間が経ってしまい記憶もあやふやなので、ツイッターでつぶやいた事を貼ります。全てニュアンスです。

 

あと、ぽつぽつと思い出すと、、、

 

「すいか」というタイトルは木皿さんが考えたものではなく、木皿さんが考えたタイトルはドラマ中にも出てくる言葉「パンプキンパンク」。これはシンデレラのカボチャの馬車がパンクしたという意味らしい。

 

初めてのラジオドラマもタイトルを「人生はタンチョウ(単調?丹頂?)ヅル」(どの漢字かカナかは不明)と考えたけど結局「僕のスカート」になったそう。

 

ドラマを書く上でテーマというものは特にない。何を書いても自分になるので氷山の一角のようなもの。登場人物は全て自分。プロデューサーはテーマよりも形にこだわる。推理ものにするとかバディものとか仕事ものにしようとか。プロデューサーもTV局もテーマは考えていない。考えてるのは文芸作品くらいじゃないかと。

 

すいかの後、プロデューサーがバラエティに行かされて、会社に行きたくなくて半分出社拒否みたいになってたそう。(もうネタのようになってますね。河野さんが飛ばされた事^^;)

 

あと山田太一さんの事、ユーミンの事、明石家さんまさんやドゥルーズの名前も出てきたり。とにかく盛りだくさんでした。

 

サインを書いて下さってる時に少しお話出来たのですが、緊張して大した事を聞けなかったので秘しておきます。 握手した時の年希子さんの手は暖かかったです^^

 

さて、もうすぐ「木皿泉〜しあわせのカタチ〜DVDブック」が発売されますが、河出書房新社創業130周年記念出版刊行予定ラインナップにも木皿泉さんの小説が。

2016年春 木皿泉 (タイトル未定/小説) とのこと。

 

もしや「波」で休載になっている「カゲロボ」でしょうか?

「波」の「カゲロボ日記」によると映画の脚本も書かれたそうで、なにはともあれ小説も映画も楽しみです^^

引っ越してきました

こちらでははじめまして。

ブログを引っ越してきました。

 

 亀梨和也君とKAT-TUNと、木皿泉さんの事もちょっぴり。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 旧ブログ

すべて緑になる日まで

 → 2016/12 追記

 旧ブログのアカウントを削除する事にしたので、過去記事もこちらに引っ越します。

 

 

音楽劇「靑い種子は太陽のなかにある」2015.8 オーチャードホール

音楽劇 「靑い種子は太陽のなかにある

パンフとチラシ_300

作  : 寺山修司
演出 : 蜷川幸雄
音楽 : 松任谷正隆  
出演 : 亀梨和也 高畑充希 六平直政 マルシア 戸川昌子 花菜 山谷初男 他

弓子 「そして、賢治さんは、暗いアパートの壁の死体のあり場所に、チョークでくっきりと目じるしの太陽をかきました。忘れないために、そしてあたしの手を握って 『靑い種子は太陽のなかにある』 と言いました」 −第二幕より−



8月17日と28日の2日間観劇しました。つたない感想を。長いです。


オーチャードホールの重厚な緞帳が開くと、そこに広がるのは異様な光景。傾斜のきつい舞台にごろごろと無造作に置かれた奇怪なオブジェ。絵画の一部になったような動かない人々。ボッシュブリューゲルフリーダ・カーロピエタのマリアとキリストもいる。(と観劇前にツイッターで教えていただいたのでじっくりと見る事が出来ました^^)


その人々が音楽とともに動き出す。銃撃音とともにバタバタと倒れていく様は戦争を思わせる。そしてまた音楽に合わせてゆっくりと絵の一部に戻っていく。


このオーバーチュアだけでもう圧巻の一言。セットもライティングも、(そんなに多くの作品を観てるわけではありませんが)蜷川さんの世界だなと思いました。


そこへ賢治登場。まず思ったのは、掃き溜めに鶴(笑)。まぶしすぎるくらいのライトを浴びて、地獄絵図のような背景から浮かび上がる賢治もある意味異様でした。スラムにいながらもはっきりと違う存在だと一目で分かる。


賢治のブルースは、泥臭さというよりは鬱屈を抱えたまだ青い青年のブルース。このブルースが実にいいんですよね。亀梨君の少しかすれた声には甘さや焦燥感が含まれていて、私はそこが大好きなんですが、ここではより深みのある声で。でもやっぱり抜けきらない青さが色っぽくて。錆ついた鉄と血の混ざった匂いのする賢治のブルース。


亀梨君が舞台用に歌い方をあまり変えていなかったのに驚いたんですが、実は本番の二週間くらい前まではもっと歌い上げる歌い方をしていたのが、歌い上げるなと言われたそうで。


「ミュージカルにはしないよ」
「歌い上げるな」
「綺麗に歌うな」
亀梨和也の歌の上手さを見せつけるために歌うんじゃない」
「ミュージカルじゃないんだから歌うな」
「もっと声枯れちゃえばいいのに」
「亀梨君は顔が綺麗すぎるから、もっと声を汚くしろ」


亀梨君が蜷川さんから言われた言葉だそうです。なるほど(笑)。


賢治がもし朗々と歌い上げていたら、賢治の苦悩の生々しさも薄れていたわけだし。蜷川さんはあえてそういう歌い方をさせなかったと聞いて納得しました。


井上芳雄さんが蜷川さん演出のハムレットに出演した時、自分は声楽を習っていたので喉に負担が ないようにいかに綺麗に出すかという声の出し方だったけれど、蜷川さんが求めるものは生々しいドロドロしたザラザラした、声なんて枯れてもいいんだくらいの声だったと、先日インタビューで話していたんですが、今回の舞台でも歌にしろ台詞にしろ蜷川さんが亀梨君に求めたのもそういった声だったんだろうなと思います。


賢治のブルースが終わると、絵画の一部だった人々がスラムの住人となって歌い踊り出す「たまげたもんだ」。夜の女たち、乞食、老貴族、鳥飼い、肉体美の男、ゲイ・ボーイ、怪力、女相撲取りといった個性的なスラムの人々。やかましくて奔放であけすけで、図太く生きるスラムの人々。荒削りで生命力にあふれた歌とダンスが素晴らしい。アンサンブルの迫力。


賢治と弓子の二人の台詞や歌は夢物語のように純粋でひたむきで、スラムの人々のそれは、コミカルだけど残酷な童話のようでもあるし。寺山修司の言葉の断片。やはりどこか詩的で美しい。そこに松任谷さんの耳になじむメロディーがつくと現代的なものが混ざる。不思議とそれは違和感がなくこの世界を作り上げていました。


高畑充希ちゃん演じる弓子の不純物の一切ないクリスタルの歌声に心洗われ、花菜さんとマルシアさんのマリーとサリーのド迫力歌バトルに圧倒され(サリーの子守歌も泣けました)、六平直政さんと亀梨君の彌平と賢治のデュエットでは父子の情と葛藤にこっちまで息苦しくなり。戸川昌子さんのおりん婆さんの腹の底から絞り出すような義太夫調の語りに身震いし、でもその内容に嫌な予感がじわりじわりと迫りくる。


事故を目撃する前の結婚を夢見る賢治と弓子のやりとりが微笑ましくて可愛くて。それだけに最後が残酷すぎて。


おりん婆さんの語る「日招き」の話が、二人に重なる。
「そして、田の畔には、血の色をしたバラが一輪咲いていたという話だよ」
「お日さまも罪なことをしなさったもんだねえ」


銃弾に倒れた弓子の胸にも真っ赤な血が。まるで真っ赤なバラを抱いているよう。
真実を明らかにする事が愛を守る事だと信じた二人の、踏みにじられた姿があまりにも悲しくて、散りゆく者の姿はゾッとするほど美しくて。


夕暮れにしか逢うことが出来なかった二人。「日の沈むまでの物語はおしまいね。これからは、日が昇るまでの物語がはじまるのね」と言って息を引きとる弓子。劇中何度か歌われる「日がもしも沈まないなら」がここでも流れる。まるでレクイエムのよう。見守るスラムの人々。


原作の戯曲を読んだ時は、賢治は弓子の死の悲しみの中にも「僕達やったよ」という満足感も含まれているように思えたんですが、舞台では、真実と引き換えに失った、その代償の大きさに打ちのめされているように思えました。死を中々受け入れらず「まだ行くな」という悲痛な叫びが聞こえてくるような。


政治とか社会とか思想とか、賢治はそんな大きなものに向かっていったわけではなくて、ただ一瞬心を通わせた朝鮮人の死をなかった事には出来なくて、みんなの幸せのためではあってもそれを見過ごすのは「正しい事」ではない。その怒りにつき動かされていたような気がします。人によっては駄々っ子のようにも思える怒り。


どうすれば良かったのか、ただ運が悪かったのか、これは起こるべくして起こったのか。それとも時代が悪かったのか。そんな時代のありふれた男女の話だったのか。この二人もまた、おりん婆さんの語る昔話に出てくる恋人達だったのか。私たちはスラムの人々と一緒に、昔々の悲しい物語を語り部であるおりん婆さんを通して見ているだけなのか。


見てる私もそんな思いがぐるぐる。そこに守り抜いた正義を喜ぶ余裕はなくて。


「靑い種子は太陽のなかにある」
「愛のために斃れた者は太陽のなかに葬られる」
結局靑い種子とは何だったのか。太陽の中には何があったのか。


もう息をしていない弓子の服を整え足を揃え手をそっと胸の上で組ませる賢治。愛おしそうに弓子に触れながらも嗚咽は止まらない。そんな二人にまた真っ白なライトが当たっている。その光はやっぱりまぶしすぎて二人とも太陽の中にいるようでした。



ツイッターでつぶやいた事もついでに。



ちなみに、河野Pは亀梨君の“陽”の部分も大きな魅力であると示したくて「1ポンドの福音」を作った。という事も追記しておきます(河野Pファンでもある私)。→こちらでも書きました。





日本でミュージカル熱が一気に高まったのは映画「ウエストサイド物語」の大ヒットからで、寺山修司もこの戯曲の初演の頃出版された「ミュージカル入門」に「日本のミュージカル」を執筆するなどミュージカルという劇表現に並々ならぬ関心を寄せていたそうです。(群像の解説より)


ウエストサイド物語にインスパイアされたジャニーさんが、野球少年4人を歌って踊れるグループに仕立て上げたのが始まりというジャニーズの、そのジャニーズの亀梨君が寺山修司生誕80年の年に寺山修司の戯曲を、音楽劇をやるというのも不思議な縁だなと思いました。


「日本のミュージカル」で寺山修司が書いていた言葉を最後に。今回の舞台はミュージカルではなく音楽劇という形でしたが。


「ミュージカルは、現在ある文学、演劇、音楽、舞踊、美術の綜合的成果として、日本人のいまのエネルギーの結集したダイナミックな舞台芸術であるべきだ」


生の舞台のエネルギーってすごいですね。